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五十九

亀山郁夫

「共苦と同感のコスモス―わたしの心の扉をたたいた書物たち」

 


●亀山郁夫さんエッセイ
「共苦と同感のコスモス――わたしの心の扉をたたいた書物たち」

はじめに、または、運命の力

  ≪文学って何なんだ? 文学と文字はどうちがう? 文学って、小説を読む人間の心の状態? 心の状態を批評的に語る営み? 文学って学問なのか? それとも生きる経験そのもの? 生きる経験そのものなら、どうして「学」なんて一文字が含まれている? 何かを学ばなくてはならないとしたら面倒くさいな。それだったら、文学と人生論の境界そのものがあやしくなるじゃないか。そもそも「学」は学問の学? 「文」に「学ぶ」なのか、「文」を「学ぶ」なのか?≫

 しかし、こうして果てしなくつづく独り言などお構いなしに、毎日、小説や詩は生まれつづける。いっそのこと、すべての迷いを捨てて、扉を叩いてしまえばいい。

 ≪ちょっと、待って。本を読むのがこのわたしであることに変わりはないにしても、わたしが本の扉を叩いて本を読むってわけか? それとも、本がわたしの心の扉を叩いて、わたしの心を読んでくれるのか。少しここは考えたほうがいいみたいだ。そもそも、わたしの人生が世界という宇宙の塵のごとき存在なら、本との出会いだって、たんに運命の産物ってことになる。むしろ、本がわたしを訪ねてくれたって考えたほうが、何だかとても美しい気がする≫

 わたしは、いま、還暦1年生。老いについて、真剣に考えはじめている。

 人間は、生まれ、育ち、熟し、やがて老いる。老いはじめた自分の顔や友人たちの顔を眺めながら、人生と生命の残酷さをなげく。老いた顔を見て、美しいと思うことはまれにしかない。少なくとも目で見るかぎりにおいて。でも、老いた顔といっても、たんに顔、たんなる表面にすぎないではないか。老いた顔にも、目は、耳は、鼻は、口はあるではないか。老いた顔をじっくり見る必要はない。老いた顔はそのままに見れば、そしてただ見られればよいのだ。

 では、老いた顔、老いた皮膚の向こうにある可能性とは、何か?

 たとえ老いても、静かに感情する主体でありつづけたい。かりにもし、喜びも、悲しみも、怒りも、恐怖も、つねにいきいきと経験できる主体でありつづけることができるなら、老いも一概には不幸な状態とは言えないだろう。

 では、肝心のわたしは、わたしの心はどうなのか? わたしの目と、耳と、鼻と、口と、皮膚のこちら側に、何かしら自分に対して誇ることのできるものがあるだろうか。

 こんなわたしの独り言を喜んでくれる読者は少ないと思うが、還暦から1年を経て、思いがけず気づかされたことがある。本の読み手として、こんなわたしでありながら、なかなか興味深い境地に近づくことができたということだ。うれしい発見だった。つまり、これからでもまだまだ本に、つまり世界にのめり込めるのだ。選り好みがはげしかった若い時代には読めなかった小説が、いまは読める。不思議である。ひと月前、わたしは、45年ぶりに夏目漱石の『こころ』を取りだし、その峻烈なドラマに引きこまれた。こんなにすごい小説だったのかと驚きを新たにした。老いて、初めて理解できたと思った。その直後、今度は、大江健三郎の最新作『水死』を読み、これにもまた圧倒されてしまった。凄いし、凄まじい。この『水死』が、『こころ』のパロディとしても構築されていることが、経験を異常な深さへと導いてくれた。何という偶然か! 45年ぶりの『こころ』の読書が、『水死』の読書と重なりあうなど! 何がしか、見えざる恩寵(おんちょう)によってわたしは生きて、感情している、と思った……。とすると、やはり、「わたしが本の扉を叩く」のではなく、「本がわたしの心の扉を叩いてくれた」と考えたほうが理にかなっていることになる。そのほうが、大いなる運命の力にたいしてより敬虔(けいけん)な態度と呼ぶことができる。

 

【亀山 郁夫】


●亀山郁夫プロフィール

亀山郁夫さん(かめやま・いくお)
東京外国語大学学長。

1949年生まれ。東京外国語大学学長。著書に、『甦るフレーゴニコフ』(平凡社ライブラリー)、『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書)、『磔のロシア』(岩波書店)、 『熱狂とユーフォリア』(平凡社)、『ドストエフスキー父殺しの文学』(NHKブックス)、『「悪霊」神になりたかった男』(みすず書房)、『「カラマーゾフの兄弟」続編を 空想する』(光文社新書)、『ドストエフスキー』(文春新書)、訳書に、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、同『罪と罰』(以上、光文社古典新訳文庫)などがある。




●亀山郁夫さん選書リスト
悲劇的なものに魅せられ ――10代前半の読書

 わたしは典型的なブンガク青年だった。人生のスタート時点において、わたしほど、「理想的な」ブンガク青年は、そうざらにはいないのではないか、とさえ思う。もっとも、その幸運は、10代半ばの2年間しか続かなかった。ただし、その2年間が決定的な意味を帯びることになった。わたしはこれまでずっと、不幸な10代を送ったという漠とした思いに苛まれ、その思いが澱のように記憶の底に淀んでいるのを感じていた。わたしの遺伝子は、どこかで決定的な傷を負っているという理由のない覚え・・・・・・。

 しかし最近、それはたんなる思い込みにすぎなかったのではないか、と反省するようになった。記憶の錯誤、ノスタルジーのバイアス。そうした思い込みに反して、現実にわたしの10代は、ことによると、わたしがもっとも幸せだった時代、黄金時代だったのではないか、と。なぜなら、この時代の5、6年間、世界のすべてが、あたかも本のなかの出来事のように、ひどく幻想的な姿で立ちあらわれていたからである。わたしはじっさいに世界に魅了されていた。自分ではなく、日本ではなく、遠い、遠い、西の世界に。そしてその世界にも、恋や、愛があり、悲しみや、不幸がある、という事態ほどわたしをやさしく慰めてくれるものはなかった。ひたすら西に憧れていた。「ふらんすへ行きたしと思へどもふらんすはあまりに遠し」(『萩原朔太郎詩集』新潮文庫)である。

 わたしの人生のすべての出発点になったのは、ドストエフスキー『罪と罰』である。とにもかくにも、出会ってしまい、読んでしまった。わたしにとって『罪と罰』の体験は、多少大げさに聞こえるかもしれないが、運命的といった言葉でしか言いあらわすことのできない激烈な何かであった。殺人犯ラスコーリニコフに完全にシンクロしてしまったし、シェークスピア『マクベス』の主人公さながら、手から血の匂いが消えない、とまで口走っていた。いったん、小説の世界と同化してしまうと、なかなか次の本に手が出せなくなる。わたしもいったんはそう思いかけた。しかし誘惑は断ちきれなかった。事実、二度と本は読まないと決心しながら、それから2カ月後にはもうエミリー・ブロンテ『嵐が丘』に手をつけていた。ただし『罪と罰』ほどの同化は起こらなかった。わたしはひたすら外部から小説をながめ、風に吹かれて原野に立ちつくすヒースクリフの浅黒い顔と、キャサリンの白い肌を思い浮かべていた。今にして思えば、わたしの人生の隠された主人公は、今もってなお、『罪と罰』と『嵐が丘』、いやラスコーリニコフとヒースクリフなのかもしれない。『嵐が丘』のあとには、『ハムレット』に、これも出会ってしまった。テレビの番組で、『ハムレット』の映画を観たのがきっかけだったような気がする。ハムレットのカッコよさに憧れ、高校では、ハムレット役者となることを夢見て演劇部に入った。だが、やらせてもらえた役は、清水邦夫のデビュー作『署名人』のなかの獄吏の役。「だまらっしゃい」というセリフをひとつはいて、わたしの「演劇人生」は終わった。
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1.
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萩原朔太郎詩集

萩原朔太郎 / 新潮社
1984/02出版
ISBN : 9784101197012
228p 16cm
¥459(税込)
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10代前半の読書
2.
罪と罰

罪と罰 1

フョ−ドル・ミハイロヴィチ・ドストエフス / 光文社
2008/10出版
ISBN : 9784334751685
488p 15cm
¥859(税込)
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10代前半の読書
3.
罪と罰

罪と罰 2

フョ−ドル・ミハイロヴィチ・ドストエフス / 光文社
2009/02出版
ISBN : 9784334751739
465p 15cm
¥840(税込)
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10代前半の読書
4.
罪と罰

罪と罰 3

フョ−ドル・ミハイロヴィチ・ドストエフス / 光文社
2009/07出版
ISBN : 9784334751845
536p 15cm
¥919(税込)
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10代前半の読書
5.
嵐が丘

嵐が丘 上

エミリ・ジェ−ン・ブロンテ / 岩波書店
2004/02出版
ISBN : 9784003223314
313p 15cm
¥588(税込)
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10代前半の読書
6.
嵐が丘

嵐が丘 下

エミリ・ジェ−ン・ブロンテ / 岩波書店
2004/03出版
ISBN : 9784003223321
378p 15cm
¥798(税込)
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10代前半の読書
7.
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ハムレット

ウィリアム・シェ−クスピア / 新潮社
1985/10出版
ISBN : 9784102020036
207p 16cm
¥420(税込)
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10代前半の読書
8.
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みずうみ 他四篇

テ−オド−ル・シュトルム / 岩波書店
2009/12出版
ISBN : 9784003242414
152p 15cm
¥483(税込)
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10代前半の読書
9.
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地底旅行

ジュ−ル・ヴェルヌ / 岩波書店
1997/02出版
ISBN : 9784003256923
477p 15cm
¥840(税込)
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10代前半の読書
10.
ちいさな王子

ちいさな王子

アントア−ヌ・ド・サン・テグジュペリ / 光文社
2006/09出版
ISBN : 9784334751036
174p 15cm
¥579(税込)
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10代前半の読書
11.
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萩原朔太郎詩集

萩原朔太郎 / 新潮社
1984/02出版
ISBN : 9784101197012
228p 16cm
¥459(税込)
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10代前半の読書
12.
立原道造詩集

立原道造詩集

立原道造 / 角川春樹事務所
2003/12出版
ISBN : 9784758430845
251p 15cm
¥714(税込)
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